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アートコラム

2022/10/10

財団設立40周年記念インタビュー「江東区の文化~未来へ~」第6回

「マンガと江東」

のらくろ館が結んだ縁

 森下文化センターに「田河水泡・のらくろ館」ができたのは、私と弟の赤鬼、永田竹丸の3人(のらくろトリオ)が、田河先生からのらくろのキャラクターの執筆を継承した10年後でした。
 あの頃の日本はまだ漫画文化に熱心ではなかったので、漫画をテーマにした常設施設をつくってくれたことは非常にうれしかったですね。のらくろだけでなく漫画界の発展にもつながりますし、私たちもぜひ協力しようと、これまでやってきました。
 実は、のらくろ館ができるまで田河先生が江東区出身とは知りませんでした。私が弟子入りした当時、先生は荻窪に住んでいて、私自身も江東区とつながりはなかったんです。のらくろ館が完成してからは、のらくろトリオの展示や私の画業70周年の記念展など、何回も開催していただきありがたいことです。来年は米寿なので、森下文化センターで記念イベントができればうれしいですね。 

田河水泡先生との出会い

 田河先生とはじめて会ったのは昭和24年、疎開先の富山県泊町(現朝日町)の小さな駅でした。中学生だった私と弟の2人は、幼い頃から絵を描くのが好きで、当時は学校新聞などに漫画を描いていました。すると、地元の新聞社の目にとまり「双子の天才漫画家がいる」と記事になり、すぐに北日本少年新聞で4コマ漫画の連載が始まりました。それを見た「家の光社」が、私たち兄弟に会ってみませんか、と田河先生を東京から呼んでくれたのです。のらくろは当時から大人気でしたから、田河先生が来ると町中が大騒ぎになりました。
 緊張しながら対面すると、先生から「君たち、何でも描けるかい?」と質問されました。ここで描けませんと言ったら認めてもらえないと思い「もちろん描けます」と答えたら「ばかもん。私にも描けないものがあるんだよ」と叱られました。あの頃は天才少年と騒がれて有頂天になっていたんです。この時に誓ったのは、いろいろな人と会い、学び、知識にして漫画を描こうということ。何事も研究が大事ですね。
 中学卒業後は漫画家を目指して両親と一緒に上京し、田河先生に弟子入りしました。毎週弟と2人で4コマ漫画を10本ずつ描き、週に1回、先生のところへ持っていく日々が3年も続きました。後で分かったことですが、私たちの忍耐力を試していたのです。
 先生はこの忍耐力があればプロの漫画家になれると言って、いろいろな雑誌社を紹介してくれました。仕事の依頼も一気に増え、生活は一変しました。この3年間がなければ漫画家にはなっていませんでしたし、72年間も続けることができたのは、先生のおかげです。 

漫画は線のマジック

 今年8月、森下文化センターで「夏休みこどもマンガ工房」を開催しました。小学生に4コマ漫画の描き方を教えましたが、今のこどもたちは絵を描くのが上手ですね。アニメの影響でしょうか、良いアイデアの子もいました。
 マンガ工房のこどもたちが、私が審査員をしている「のらくろマンガ賞」に応募してくれたらうれしいですね。入選すれば大きな自信につながりますし、漫画家を目指すこどもが出てくるかもしれないと、期待してます。
 日本の漫画文化が世界に広まったことはうれしいのですが、描くという行為は大事にしてほしいと思っています。最近はパソコンやタブレットで描く若い漫画家が多いのです。文明の利器が発達してもペンとインクで描いてほしい。漫画は線のマジック、線1本の描き方によって、その人の個性が出てきます。今、私が伝えたいのはそれだけですね。

(聞き手/片山祐子)

プロフィール

山根青鬼(やまねあおおに)さん

1935年東京生まれ。本名は山根忠。1945年富山県に疎開。1949年双子の兄弟合作で「北日本少年新聞」でデビュー。1950年田河水泡から「青鬼」のペンネームを名付けられ、門下生となる。以降、少年誌等で活躍。1989年、田河水泡より弟の山根赤鬼、永田竹丸とともに「のらくろ」の執筆権を継承。公益社団法人日本漫画協会理事。

【主な作品】「めだかちゃん」「でこちん」「名たんていカゲマン」ほか。

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